ある時、筆者はTwitterでこのようなツイートを見つけたので、相手に自分の意見を述べた。
その作品が面白いかそうでないかは別として、世間に認知されていない事を「馬鹿」の2文字で断定するのはおかしいと思ったからである。確かに世の中には日の目を見ない優れた作品もあれば、対して面白くもないのにネームバリューだけは一人前の作品もあるかもしれない。しかし、だからと言ってそれを評価する世間の目や、その他大勢の人々の価値観が狂っていると言えるのだろうか。
少なくとも、1個人の価値観でその他大勢の価値観を「馬鹿」で纏めるのは違和感があるし、そんな事を直接言われて納得出来る人間はまず居ないだろう。筆者だって直接言われたら納得出来ない1人である。
また、特定の作品のタイトルで上記のような過激な言い回しを使う事は、誰かの反感を買う可能性がある。そして、それは巡り巡ってその作品や作者の評判を不用意に貶める危険性がある。そのような経験を筆者自身何度もしてきたし、このブログでも散々扱ってきた。
すると件のツイート主から、以下のリプが送られたのである。
彼の返信に対する反論を、1つずつ丁寧にやっていきたいと思う。
馬鹿を馬鹿だって言うのは貶めるって言わねえし
例え相手が本当に馬鹿だとしても、それを誹謗中傷を目的として本人に直接言うのは、現実でもネットでも倫理的に許される行動ではない。ただ、自分もそれ相応の返り討ちのされても構わないという覚悟があるなら、筆者としてはこれ以上何も言えない。恐らく彼は日常的に、自分が馬鹿だと判断する相手に馬鹿と言える、非常に豪胆な性格なのかもしれない。そうであれば、筆者としては尊敬に値する振舞である。
そもそもブロガー気取って昭和も大正もディスってやがる外道が何ほざいてんだって話だし、
残念ながら過去にブロガーを気取った事は一度も無いし、それどころか一部のブロガーに敵意すら持っている。
見ての通り、筆者はブログで文章を書いている。つまり、他人から見れば筆者は「ブロガー」と見做されても、そんなに不思議な事ではない。しかし、筆者は今迄自らブロガーと名乗った事は一度も無い。筆者のTwitterプロフィールを見て貰えば分かるが、自ら名乗っているのは、「ブログ管理人」である。
SEO?SNSを使った集客?皆が気になる、ブロガーのブログ運営戦略とは!!!-或訓練された信者の一生より引用
筆者が意図的にブロガーを名乗らないのには、理由がある。それは「ブロガー」という言葉自体に、羞恥を覚えるからである。
ネット上には色々な理由でブログを運営している人達が居るが、その中にはお金を稼ぐ手段としてブログを「利用」する層が存在している。彼等のプロフィールには総じて、年収〇〇千万円とか、自由を手に入れるとか、大言壮語に満ち溢れた言葉が並んでいる。そして、嬉々として自らを「ブロガー」と称して、日々耳障りな有難いご高説を垂れ流しているのである。
そういう胡散臭い連中は勿論嫌いなのだが、同程度に喧しいのはそんな連中にあやかろうと同じような言葉を身にまとい、自分を高く魅せようとする意識高い情弱達である。両陣営共に、ブロガーという言葉をぶんぶん周りに振り回すものだから、そんな奴等と一緒くたに並べられたくない一心で、筆者は今日迄自らをブロガーと名乗っていないのである。
確かに筆者は桐丘さなの作品について、自らの感想を書いているのは事実である。しかし、筆者は評価すべき所は評価しているし、面白くないと感じた事については理由を出来る限り添えて書いている。その一部を此処に引用したいと思う。
桐丘さなの作品の魅力を考える時、筆者としては魅力的で可愛い女の子のキャラデザよりも何より、その現実味を帯びていて且つ芯のあるストーリーとそれをきちんと引き立たせる演出や登場人物の巧みな心理描写を推したいと思っている。例えば、常世を虐める母親の言動や行動は、嫌になるほどに生々しい。また、第一話から第二話における仁太郎の豹変ぶりを描いた描写は、本当に読者にとっての仁太郎の印象を落とすぐらいに見事な落差具合である。一方で、第四話の常世が仁太郎に心中を告白する場面や、仁太郎にお粥を褒められて喜ぶ常世の描写など、読者を感動させたりほっこりさせる描写も素晴らしい。ストーリーやその時代設定も相まって、まるで漫画なのに小説を読んでいるかのような気分になってくるのである。また、各話の引き所もしっかりしていて、次話を早く読みたい気分にさせてくれるほどにニクイのである。
桐丘さなの最新作、昭和オトメ御伽話の感想を書いてみた!!!-或訓練された信者の一生より引用
今回、名場面を1つ取り上げるとするならば、筆者は第二十話を選ぶだろう。特に、珠彦がユヅの親友である美鳥を見つけてから、気絶したユヅを彼が泣きながら抱え走る迄の一連の流れは、痺れるほどに素晴らしかった。その場面を読む度に、筆者は頭の中にBUMP OF CHICKENのファイターという曲が思い浮かぶのである。曲の内容とあの場面での珠彦の思いが、何処か重なっていく気がしていた。
大切な人の為に、厭世家は奮い立つ。大正処女御伽話読んでみた!!!-或訓練された信者の一生より引用
それ以上に筆者が本作を楽しめなかったのは、やはり前作より濃度の高いシリアスな展開とストーリーである。元々暗い展開は不得手なのもあり、常世が結核に罹って以降は若干読むのがきつかった。前作でも関東大震災という理不尽な展開があったが、ついていくどころか展開が気になって早く続きを読みたくなるぐらいだった。
仁太郎と常世の未来は・・・。昭和オトメ御伽話の感想を書いてみた!!!-或訓練された信者の一生より引用
そもそも、批判とディスりもとい中傷は全く違うものである。「あの作品を読んでいる奴はキチガイだ」とか「この作品は糞でゴミだ」というような含意の言葉は、確かに良くないと思う。少なくとも、筆者がそういう意図の文章を書いていないことは、記事を「きちんと」読んで貰えれば分かって頂けると思う。
また、その作品をどのように評価するかは、基本的にその人の自由であるべきだと、筆者は思う。良い部分は確か褒めるべきであり、批判すべき所もそれなりの根拠があるなら、そういう意見もあるとして受け入れるのが、大人の対応であると思う。批判を頭ごなしに否定するのは、その人の思想や発言を侵害するものではないのだろうか。世の中には多数の意見があるからこぞ、その作品をより深く味わう事が出来る筈である。
ちなみに筆者は自分が書いた記事に対する感想や意見は大歓迎である。例え、自分とは違う意見だとしても、それを発信する自由は尊重すべきであり、「ディスってやがる外道が何ほざいてんだ」とは思わない。
お前が勝手に設定したファンとして逸脱しない言動なんて知ったこっちゃねえしというか本当に知らねえし巡り巡る心配する前にお前も作品の評価上げるよう頑張れ!
確かにファンというものの在り方それぞれであり、一概に決められるものではないだろう。
勿論、これは筆者の考え方であり、人に押し付ける積りは無い。そして、常にこれを実践出来るほど、筆者は人間的に出来ている訳でもない。だが、この世に現存する素晴らしいコンテンツが、くだらない些末な行いでその価値を損なわれるというのは、甚だ我慢出来る事ではない。それに無自覚で居る事も筆者からすれば、ある意味同罪なのである。
「訓練された信者」という名の在るべき形。-或訓練された信者の一生より引用
だから、筆者は今日も「訓練された信者」というフレーズを使い続けている。どんな形でも、ファンとしてそれぞれ最善の姿を模索すれば、自ずと程度の低いファンというものは目立たなくなっていく筈である。筆者はあくまでも「訓練された信者」として、このブログを通して素晴らしいコンテンツを語るのみである。
だが、読者の皆さんには考えて貰いたい。もし、自分と同じコンテンツを好きな人間が、自分或いは第三者に上記のような言動を言い放っている場面を見たら、どう思うだろうか。恐らく気持ちの良いものではないし、胸に不快なものが溜まる人が大半であると、筆者は思う。
リアルだろうがSNSだろうが、相手が人間である以上自分の発言には責任を持つというのが、良識ある大人というものである。恐らく彼は、日頃から自分の言いたい事だけを言いっぱなしにして、相手の立場を考えるという事を教育されなかったのかもしれない。それなら上記のような言動を発信出来るのも納得出来るし可哀想だと思う。
筆者と彼のどちらがより間違っているかは、この記事を読んでいる読者の判断を仰ぎたいと思う。ただ、相手に自分の意見を述べる時は、きちんと相手の言い分をよく確かめて、主張すべきだと筆者は念を押しておきたい。
追記
筆者は日頃、彼がどんなツイートをしているのか興味を持ち、6月3日迄遡った。すると、とんでもない発言を見つけてしまったのである。
これらのツイートは冒頭で取り上げたツイートの内容とほぼ同一である。やはり、「イカれてる」という言葉を使うのは、人によっては不快感を覚えるし、もう少し適当な言い方がある筈である。しかし、これらはまだマシな方であり、次のツイートを見た時に、筆者は思わず驚きの声をあげてしまった。
これはもう、集英社に対しての批判ではない。完全に誹謗中傷と捉えても差し支えない文章ではないのだろうか。
勿論、筆者も書籍が好きな人間であり、それゆえに出版業界に対して言いたい事も抱えているのは否定しない。だから、自分の好きな漫画を愛する余り、その扱いに一言いいたくなる気持ちも分からないでもない。
しかし、出版業界を支えているのはやはり其処で働く人間であり、批判をするにしても、最低限のマナーくらいは守るべきである。最低限の礼節すら感じられない批判は、もう批判ではない。
冒頭で引用したツイート元は既に削除されていて、辿る事は出来ない。恐らく今紹介したツイートもいずれ消されるだろう。しかし、ツイートを消せばいいという問題では無いのである。
何度も繰り返すが、ネットの書き込みは基本的に残るものである。そして、画面の向こうには自分と同じ生身の人間が居る。だからこそ、我々は常に一度考えてから、文章を書き発信しなければならない。そして、これはネットを使っている限り、筆者とこの記事を読んでいる貴方自身に常に付きまとうカルマなのである。