前回ブログを更新してから、自分が次の記事を書く事が出来なくなっているのを悟った。編集画面を開いても1行書いたら消してを数回繰り返して、最後には画面を閉じて別の事をしていた。恐らく自分でも気付かないうちに、ブログを書く事に拒否反応を起こしていたのだと思う。
そして今、こうして筆を取る事が出来るようになっているのも、多少は心の落ち着きを取り戻して、再び己の考えを言葉にする心構えが出来たのだろう。
件の記事を書いた後に起こった出来事は、一時的にとは言え筆者を著しく消耗させた。その詳細を語る事は、勝手ながら控えさせて頂きたい。そして、此処からが今回の本筋であり、少しばかり自らの勇気を振り絞らなければいけない所である。
まずハッキリさせなければいけないのは、筆者はその記事を書いた事自体は後悔していない、という事である。其処で書いた主張に嘘偽りは無く、自分なりの信念を通したものだからである。あれから何度も考えたものの、やっぱり自分の中に後悔めいた感情は無かった。
だが、後に自分の見通しが甘かったのを知る事になる。何を隠そうとある友人から、筆者のやっていることは「陰湿な弱い者虐め」と批判されてしまったのである。そして我々は互いの見解の相違から、言い争いの1歩手前迄いきかけた。最終的には今後、今回の件を話題に出す事はしないという彼の提言を、筆者が受け入れるという形で収束するに至ったのである。
これまで自分のブログに対する反応を、筆者自身全く想定していなかった訳ではない。しかし、それはあくまでネット上での話であり、まさか身近に居る者から面と向かって批判される事迄は、正直予想出来なかったのである。そして、一定の説得力を持った彼の言い分に筆者自身、激昂しかけたのを記憶している。
結局の所、筆者は自身の主張を少なくとも、身近に居る人間だけは受け入れて貰えると、心の何処かで思い込んでいた。高を括っていた。それは間違いなく、筆者の過ちである。
ブログやTwitterも含めてネット上での発信には、何らかの反応を伴う可能性がある。しかし、それが実際にどんな形で現れるかはその時にならない限り分からないし、想定外の反応が来る事だって充分有り得るのである。これから筆者がどんな記事を書いたとしても、恐らく永遠につきまとう問題だろう。
今回の一件で、筆者はネット上で発信する事の本当の意味を思い知った。これからブログを運営していけば必ず巡り合うであろうことの1つとして、しっかりと胸に刻み込みたいと思う。
ブログ全体の話としては、大体上記の通りである。ただ、もう少し具体的に語らなければいけない部分もある。それは、今後も必要に応じてネット上に存在する個人の発信に言及した記事も書いていく、という事である。それは、誰かのツイートやブログの記事が筆者の中で引っ掛かりを覚えた時である。場合によっては冒頭で引用した記事のように、内容がnegativeでsensitiveなものだとしても。
ブログの記事に関しては、まだ大丈夫な方だとは考えている。筆者自身これまで度々自身の記事作成の為に、他ブログの貴重な記事の一部を適切に引用させて頂いてきた。他のブログ記事自体に言及した事はまだ無いものの、ブログというメディアを扱っている手前、ある意味ではお互い様という共通認識が備わっているからである。
問題はツイートの方である。当ブログの読者なら特に知っているだろうが、割と記事にツイートを引用している記事が多い。有名無名に関わらず、企業アカウントだろうと個人アカウントであろうと必要であれば、隔たりなく引用している。
ただ、冒頭の記事に関しては毛色が少し異なる。当該記事の補足説明としての要素も含んでいるので、もう少しばかりお付き合い願いたい。
まず読者に分かって欲しい事の1つは、筆者は当記事も含めていい加減な気持ちで書いている訳ではないという事である。恥ずかしながら知名度が高いとは言えない当ブログではあるが、今迄書いた記事には総じてこのブログに対する理念や姿勢が込められている。
読者の評価は兎も角、更新するからには読まれることを前提に、読まれたくないならいっそ最初から書かないという気持ちで、記事を書いてきた。今回はこのような事態に遭い自らの未熟な部分に直面はしたものの、記事を消す事だけは絶対にしないと決めていた。
たかが一記事、消して無かった事にしようと思えば、それを選ぶことは出来た。しかし、筆者は敢えてそれを選ばなかった。何故なら自らの記事に在る、言葉の重みを軽くするからである。すぐに取り消せるinstantな言葉なんてものは、筆者から言わせると乾いているも同然である。
また、低評価を受けたから記事を消すのは、結局このブログの為にはならない。それが悪癖となり最終的に記事自体を書けなくなってしまっては、元も子も無いからである。だから、筆者はこれからも1つ1つの記事に真剣に向き合う積りである(例外として、記事を消さなければブログの存続自体が、危うくなる場合等は別である)。
件の記事を書いた事自体に後悔は無いが、「陰湿な弱い者虐め」と指摘されるのも仕方ない部分があるのは認めている。批判する為に特定のツイートを引用して記事に載せるというのは、確かに気持ちの良いものでは無いという意見も理解は出来る。
しかし、筆者の中にも一応線引きというものがあり、それを遵守した上でやっているという事も理解して頂きたい。ツイートの引用に関する記事では以下のものが、簡潔で分かりやすいと思う。この記事は筆者が過去に書いた記事にも引用されているし、ブログ運営者だけでなくTwitterを利用している人が読んでも、損は無いと思う。
実際に記事を読んだ読者なら分かって頂けるだろうが、筆者は過去に一度もツイートのスクリーンショット(以下スクショ)を記事に載せていない。何故ならツイートのスクショを載せる事はルール違反であり、それは筆者のようにブログで何かしらの発信をする人間が守るべき最低限のモラルに反する行為だからである。
また、スクショ掲載のように非公式のツイート転載は、そのブログ記事の信憑性を損なう可能性がある。個人のブログにいちいち信憑性を持ち出すのは馬鹿げていると思われるかもしれないが、筆者は何かしらの主張するならば、それなりの根拠や1次ソースは必要である事を学んでいるし、そうする事が発信する側の礼儀であり責任だと思っている。
ほとんど読むことは無いけれど、某大手のゲーム系ブログなんかで「ネットの声」みたいな形でTwitterのスクリーンショットを掲載していたりする。
【Twitter】ツイートをスクショで引用するのは規約違反ですよって話-ネットの海の渚にてより引用
なんらかの配慮のつもりなのか、アカウント名の部分にモザイクを掛けたりして本文だけが読める状態にしてあったりする。
これは著作権を無視した無断引用の最たるものなのだが、ヘタにアカウント名のところを読めなくされているから、それが実際に存在するツイートなのか、もしかすると筆者がゼロから作った架空のつぶやきなのかの判断が難しい。
そして、此処からが筆者が前回の記事で主張した内容の一部にも繋がる、重要な部分である。実のところTwitterが推奨する公式の引用方法を使えば、少なくとも仕組み的にはどんなツイートであろうと自由に載せる事は問題ないのである。
ツイートをブログに引用したいならば、公式が用意している埋め込みコードを使えばいい。
【Twitter】ツイートをスクショで引用するのは規約違反ですよって話-ネットの海の渚にてより引用
この埋め込みコードを使用すれば、Twitter社の規約のとおり自由に埋め込みができる。
よく勘違いされがちだが、自分のつぶやきを勝手に使われたみたいに騒ぐ人がいるが、正式にTwitterAPIを用いた埋め込みであれば、つぶやいた本人の確認や了承は得る必要がない。
端的に言えば、本人に無断でブログ等に引用していいと規約に書いてある。
中略
ざっくり要約すると、無償でTwitterのサービスを使わせてあげるけど、二次使用の著作権的なものは弊社のAPIを使ったものなら本人の意思とは関係なく許可しますよ。と書いてある。
これは逆に言うならAPIを使用しない場合は規約違反であるとも言える。
ツイートを正式な方法で引用するのはルールとして問題がない、という事は分かって頂けたと思う。では、引用された側はそれを一方的に受け入れなければいけないのか。実はそうでもないのである。
じゃあ利用者として勝手な転載を防ぐ手立てがないのかというとそんなことはない。
単純に鍵をかけたらいいのだ。
そうすれば仮にブログに埋め込まれてしまったとしても、鍵をかければそれ以降表示されなくなる。
もしくはその当該ツイートを削除してしまえばいい。同じく表示されなくなる。(残骸は残る)
こういう対抗策もその引用が正式にAPIを使用してくれてこそなのだが、これがスクショであればどうしようもない。
そういう意味でも無許可でスクショを使用するのは悪質だと言ってもいい。引用がAPIで行われていれば、消したり鍵をかけたりという本人の意思が反映されるわけだからまだフェアに感じる。
【Twitter】ツイートをスクショで引用するのは規約違反ですよって話-ネットの海の渚にてより引用
正規の方法でツイートを引用するというのは、ある意味で引用された側にチャンスを与えるようなものである。筆者としては元のツイートを削除されると、残骸が残るとは言え出典元が閲覧出来なくなる以上、その信憑性が弱まるのは困るというのが正直な気持ちである。
しかし、引用する側とされる側のパワーバランスを考えた時、最も均衡に近いのがAPI使用によるツイート引用である。相手を一方的に蹂躙するのが筆者の目的では無い以上、この方法を使うのが最も有用なのである。その上で、筆者は改めて主張したい。
リアルだろうがSNSだろうが、相手が人間である以上自分の発言には責任を持つというのが、良識ある大人というものである。
桐丘さなの作品を愛する全ての人達へ。-或訓練された信者の一生より引用
中略
何度も繰り返すが、ネットの書き込みは基本的に残るものである。そして、画面の向こうには自分と同じ生身の人間が居る。だからこそ、我々は常に一度考えてから、文章を書き発信しなければならない。そして、これはネットを使っている限り、筆者とこの記事を読んでいる貴方自身に常に付きまとうカルマなのである。
筆者が書いたブログの記事も、読者がいつか書いたコメントやツイートも、等しく誰かに見られて反応を貰う可能性を孕んでいる。少なくとも、ネット上において例外は無いのである。勿論、ネット上に残っている全ての文章が不適切な内容とは言わないし、いちいち深刻に考えて書いても疲れるだけである。ただ、ちょっと冷静になって考えてから書けばいいというだけの話である。
だから、前回取り上げたあのツイートたちに関しては、筆者は悪質だと判断して記事にした。当たり障りのない良識の範囲内であるツイートなら、別に取り上げる気は全く無かった。しかし、こちらのリプに対する暴言めいた返答はやはり気分の良いものではなく、それが取り上げる気持ちをさらに高ぶらせた要因になってしまった。
個人的には取り上げたツイートを消すぐらいなら、最初からツイートをするべきではないと思う。今の所、例のアカウントの真意は分からない。何故なら、向こうにこちらの批判を受け入れる義務は無いからである。無視しようと思えばいくらでも出来るし、寧ろ向こうから筆者を批判する可能性だってある。ただ、筆者としては向こうの言い分を聞く姿勢は充分あるし、こちらから一方的に拒絶する積りは無い。こちらが批判する以上、向こうにもそれをする権利はあるからである。
だが実際の所、筆者が前回のような特定のツイートを引用して、その内容を批判するというのは、最適な方法とは断言出来ない。これまで筆者の考えやその根拠を説明してきたが、結局それは絶対的な正解ではないし、下手をすれば「正義マン」や「マナー警察」と揶揄されてもおかしくない行動である。所詮、一個人の考えと行動である。筆者の考えを誰かに完璧に説明出来ても、それが支持されるかは別問題であり結局「陰湿な弱い者虐め」と言われれば、それまでなのである。
いっそ、それらの文章をわざと無視するのも1つの意見ではあると思う。それらを指摘しても、相手の考えが変わるとは限らない。寧ろ、こちらの精神がすり減るだけである。しかし、今の筆者にはその選択肢を取る気持ちが、どうしても湧かない。見て見ぬふりをするというのが、根本的な解決とは思えないのである。
どちらにしても筆者に出来るのは、このブログを使い自分の意見を発信するという事だけである。勿論、今回のような出来事も含めて、もっと上手くやらなければいけない部分はあるし、どうしたって否定的な反応は避けられない。だが、何もしないよりは何かした方が、今よりも状況はきっと変わる筈である。
これからもブログを長く続けられるように、筆者は今回の出来事を糧にしてまた進もうと思う。読者には引き続き、応援出来る部分は応援して欲しいし、批判すべき所は是非批判して頂ければ幸いである。