これは、当ブログにおける通算100個目の記事である。
このブログを隅から隅迄読んでいる読者なら、随所に渡って「訓練された信者」というフレーズが使われていることに、覚えがある筈である。今迄、この「訓練された信者」というものに対して、筆者は明確な説明をしてこなかった。当ブログのタイトルにも入っている、この「訓練された信者」という言葉について、今こそこの場を借りて、読者諸君に説明したいと思う。
まず、「信者」というワードについて筆者が考えている意味や解釈について説明しなければならない。この場合における「信者」は要するに「ファン」の言い換えに過ぎない。「信者」という言葉もネット上では、様々な用法があるらしいが、単純に「○○という作品や作者のファンです」みたいな、意味合いで問題はない。筆者からすると、ファンと信者の使い分けに大した違いは無く、此処では厳密に区別する意味も無く必要も無いので、そういうものだとして話を聞いて貰いたい。
では、「信者」と筆者が使う「訓練された信者」には、どのような違いがあるのだろうか。それを説明する前に、少し昔話をする必要がある。
筆者はその時、縁あってBLOOD+というアニメを見て、UVERworldの「Colors of the Heart」を知り、その曲の虜になっていた(それがきっかけで、後にUVERworldの訓練された信者になる)。そして、彼等の曲がかっこいいことを、周りの人間に話したのである。当時はまだ特定のアーティストを好きになったことがなく、CDすら1枚も買ったことが無い人間だったから、余計に興奮していたのを、よく覚えている。
しかし、彼等の反応は筆者のそれに対し、寧ろ冷めたものだった。彼等から言わせると「UVERworldよりもBUMP OF CHICKENの方が余程良い」というものだった。その頃の筆者からすると、彼等の返答は鳩尾に拳を叩きつけるのと、ほぼ同等なぐらいに辛く苦しいものを感じさせたのである。自分が折角手に入れた宝物に、傷をつけられたようなショックを覚えた。その時を境に筆者は、BUMP OF CHICKENに嫌悪の感情を抱くようになってしまった。それまではBUMPに対して、特に肯定も否定も無かったのだが、その一件を境に彼等や彼等を好きな者達に対して、一定の距離を置くようになったのである。(しかし、筆者はその後「firefly」という曲を知ってから、少しずつBUMPの訓練された信者への道を歩むことになる。だが、それはまた別の話。)
素晴らしいコンテンツには総じて、ファンが多くつくようになる。しかし、そのファンの中には残念な振舞をして間接的に、そのコンテンツに悪いイメージを持たせる人間達が居る。それは、結果的にそのコンテンツの寿命を縮め、殺す事にもなるかもしれない。筆者からすれば、そのような人間にファンを名乗る資格は無い。
コンテンツの質を下げる無益なファンの行いを、筆者は体験した事もあるし、それに関連した話を沢山耳にしてきた。だから、筆者はファンとしてのあるべき姿や姿勢を自分なりに考えた。他のコンテンツやそれを嗜む人達に排他的な姿勢や行動を取る事なく、純粋に好きなコンテンツを愛し応援すること、そしてそれらを実践出来る人を、「訓練された信者」として筆者は呼称する事にしたのである。
勿論、これは筆者の考え方であり、人に押し付ける積りは無い。そして、常にこれを実践出来るほど、筆者は人間的に出来ている訳でもない。だが、この世に現存する素晴らしいコンテンツが、くだらない些末な行いでその価値を損なわれるというのは、甚だ我慢出来る事ではない。それに無自覚で居る事も筆者からすれば、ある意味同罪なのである。
だから、筆者は今日も「訓練された信者」というフレーズを使い続けている。どんな形でも、ファンとしてそれぞれ最善の姿を模索すれば、自ずと程度の低いファンというものは目立たなくなっていく筈である。筆者はあくまでも「訓練された信者」として、このブログを通して素晴らしいコンテンツを語るのみである。
(追記)
話は脱線してしまうのだが、折角なので最後迄御清聴願いたい。筆者は一応ブログを使っている立場なので、それなりにだがブログというメディアに愛着を持っている。しかし、世の中にはブログというものを、拝金的に活用するあまりに、その価値を不必要に貶める輩が跋扈している。全てとは言わないが、所謂「ブロガー」と名乗る人間達にその傾向が多く見られる。
そういう意味では彼等も、卑しい行いでコンテンツの価値を下げる者共と何も変わらない。「ブロガー」達が貶めるのは、正当なブログの価値である。ここ数日は、筆者のブログに対するモチベーションが下がっていたのだが、彼等の横着な行動を見て心構えが変わった。
彼等がもたらす無味乾燥なブログが存在を許されるならば、筆者のブログだって書くことを許される筈である。だから、筆者は何が何でもこのブログを存続させる動機を、また1つ得た。道程は長かったがこうして100記事目を迎える今、その意思はより固まった事だと思う。勝ち負けでは無いかもしれないが、筆者としては反面教師としてもそれらと真っ向から対峙し、自分の考えが間違ってはいなかった事を確かめる為にも、ひたむきに精進したい。
2020年6月6日