言霊よりも大事なもの、それは・・・。(アマツツミ ほたるルート感想 後編)

ノーマルルート

ほたる 9
月曜日、誠はほたると学園の礼拝堂や例の花畑で、今迄の思い出とこれからのことについて話し合う。「ほたる」にとっての最後の1週間が始まった。

ほたる 10
火曜日。残りの時間を誠と一緒に居る為に、ほたるは折り紙に外泊する事になる。そんな彼女がしたい最初のことは・・・折り紙でバイトする事だった。

ほたる 11
水曜日、その日は誠とこころがデートすることになっていたが、彼女の提案で体を重ねる運びとなる。まだ心の準備が出来ていないというほたるだったが、程なく誠を連れて人気の無い所へ・・・。

ほたる 12
木曜日、誠は里を下りてからの今迄の思い出を、ほたると共に振り返っていた。様々な場所を巡り、最後の場所である学園の礼拝堂で、誠は彼女にプロポーズする。

ほたる 13
日曜日。誠とほたるの、2人だけの結婚式が行われる。そして、誠はほたるを救う為に・・・。

ほたる エピローグ
澄み渡る青空を見上げて、ほたるは最愛の彼を想い生きていく。

ハッピールート

ほたる 9
ノーマルルートを参照。

ほたる 9 (ハッピールートのみ)
誠はほたるが折り紙に泊まるための準備をしている間、湖から連れてきた蛍を眺め考え事していた。やがて彼はもう一度「オリジナルのほたる」に会いに行く。

ほたる 10
ノーマルルートを参照。

ほたる 10 (ハッピールートのみ)
誠は再び「オリジナルのほたる」の元に向かう。それは「雑談」を通して彼女を理解する為であった。そして、「オリジナルのほたる」も誠に対する態度を少しずつ軟化させていくのであった。

ほたる 11
ノーマルルートを参照。

ほたる 11 (ハッピールートのみ)
その頃、「オリジナルのほたる」は何故か自分が時間というものをを気にし始めていることに違和感を覚える。誠は例のごとく彼女の元を訪れ、自分が「オリジナルのほたる」に情を抱いていることに気付く。

ほたる 12 (ハッピールートのみ)
誠はほたると自分の思い出を辿りながら、同時に「オリジナルのほたる」のことも考えていた。いつもより早い時間に病院に訪れた誠は、彼女が思った以上に消耗している事に気付く。

ほたる 13 (ハッピールートのみ)
例の花畑で誠と、2人のほたるが揃う。生きられるのは片方だけ・・・、しかし、誠は自分の意志でそれを否定する。

ほたる エピローグ2
誠は自ら言霊の力と引き換えに、ほたるを救うことが出来た。誠とほたるの頭上には、清々しい青空が広がっていた。

「ほたる 9」以降は、それぞれの選択肢によって異なる結末に向かって、物語が進んでいく。最初は選択肢毎のルートに合わせて感想を書こうとしたが、少し考えて敢えて纏めることにした。もしかしたら筆者の考えすぎかもしれないし、Purple softwareが意図した事とは的外れな指摘になるかもしれない。いつもより長い記事になるだろうが、お付き合い願いたい。

ほたるルートについては、公式から以下の説明が与えられている。

つまり、ほたるルートはエンディングが2つあります――最後のオチだけ分岐する、ではなく、ある程度の規模で2ルートあります(さすがに1ルート丸々のテキスト量とはいきませんが、Hシーン込みで少なくない分量があります)。

これを“ノーマルルート”および“ハッピールート”と制作時に便宜上呼んでいます。

ポイントとして、後者は“トゥルールート”ではないというところですが、どちらが物語の最後として相応しいかは、プレイされてご自身で決めて頂ければと思います。

ほたる(本筋)シナリオついて-アマツツミ公式HPより引用

筆者はバッドエンドよりハッピーエンドが基本的に好みである。だから、初回はノーマルルートのほたるを本当に可哀そうであり、ハッピールートをプレイして大円団を迎えられたことが良かったと思っていたのである。しかし、何度か本作を繰り返すうちに、ちょっと自分の考えが変わり始めていた。単純に、この2つの結末のどちらが本編の結末として相応しいかを決めることが、少し違うと思ってしまったのである。

本編を実際にプレイした人なら分かると思うが、初回で選べるほたるルートの選択肢は「殺してやる」のみである。もう一つの選択肢は、最初にノーマルルートをクリアしてやっと選べる仕様になっている。単に異なる2つの結末を用意して好きな方を選ばせるだけならば、通常のマルチエンディング方式でも充分な筈である。

そして、ほたるルートのチャプターにも注目したいと思う。ノーマルルートを基準にすると、「ほたる 9~11」のそれぞれの終わりの直後に、ハッピールートだけで見られる展開がある。そして、「ほたる 12」からそれぞれの結末に向けて、物語は独立して進むようになっている。

このように2つのルートは、完全に独立した別々の話というよりも共通したものを持ちつつも、全く別の性質も同時に持ち合わせている双子のような関係である。まさに本編に出てくる2人の水無月ほたるのそれを想起させるようである。

更に実際の物語に触れてみると、ノーマルルートとハッピールートの大きな違いは、誠が「オリジナルのほたる」とコミュニケーションを重ねているか否かであるというのが分かる。ノーマルルートで、誠と「オリジナルのほたる」が顔を合わせた回数は、僅か2回だけである。きっかけは「ほたる 10 (ハッピールートのみ)」で、誠は偶然蛍を見つけたお陰で、「オリジナルのほたる」に対する怒りを一旦沈め、彼女にもう1回向き合うきっかけを得る。ある意味で、此処でも彼は「ほたる」に救われたのである。

「オリジナルのほたる」は誠に怒りの感情をもたらした。そして、ノーマルルートでの誠は彼女を「排除した」。一方、ハッピールートでの誠は彼女を「受け入れた」。「オリジナルのほたる」に対する行動が、誠の命運を分けたとするならばそれは何を意味するのか。筆者が思うに、「オリジナルのほたる」は、誠が最終的に人間として生きられるかを決定づける試金石だったである。

人間の悪を体現する「オリジナルのほたる」を否定せずに受け入れる、それは誠が人として生きる為に、どうしても乗り越えなければならない壁なのである。何故なら、人間は多かれ少なかれ良い所も悪い所も両方持ち合わせており、完璧ではないからである。

勿論、全ての人間が理想的に善良な市民なら良いのだけれど、我々の知る現実はそうではない。しかし、それに絶望し目を背けてばかりでは生きていくことは出来ないし、前に進むことも出来はしない。誠が人として生きるには、それらを最終的に受け入れなければいけないし、それを否定する事は結局、人間として生きようとする彼自身を否定することに繋がるのである。

更に、忘れてはいけない事が1つある。それは2人のほたるが「違っていて同じ」ということである。分かりやすく言うならば、「オリジナルのほたる」は悪の部分を多く露出させているが、善の部分も僅かながらちゃんと持っていて、その逆も然りということである。そして、2人はやはり共に水無月ほたるなのである。

「オリジナルのほたる」は最初こそ嫌悪を感じさせる言動や態度を取っていたが、誠が彼女を受け入れることでそうではない部分、かつては確かに持っていた「普段の水無月ほたる」を垣間見させるものを少しずつ露わにするようになっていった。また、もう1人のほたるも自らの運命に絶望し呪いながらも、世界を知り誠に恋をする事で、天寿を全うし「次のほたる」に託す生き方を選択したのである。

このように2人は善悪の部分がいずれかに偏っているだけであり、双方が「水無月ほたる」という本質を持っていることに変わりは無いのである。そして、ハッピールートの誠は、ノーマルルートでの彼と同じ方法を考え、2人のほたるもそれを選ぼうとしたが、彼は敢えてそれは実行しなかった。

それは誠が、2人のほたるをそれぞれに1人の人間として認めており、だからこそ共により良い答えを導く事が出来ると考えたからではないのだろうか。神は完璧かもしれないが、人間はそうではない。だから、1人ではどうしても限界があり、事実ノーマルルートの誠はそれ以上の方法を思い付くことは出来なかった。

しかし、1人では難しい事でも他の人間の助けを借りることで、解決出来るのも確かである。それは寧ろ人間に許された特権であり、だから素晴らしく価値があることなのである。誠はそれらを経験し2人のほたるを、善も悪もひっくるめて人間として認めた上で、共に前に進むことが人として生きるということを、心で理解したのだろう。

単にハッピーエンドで終わらせるだけなら、ハッピールートだけでも充分なのかもしれない。しかし、先にノーマルルートを通してからハッピールートを観てみると、より物語が我々に伝えようとするメッセージが、より重厚で説得力を持ってくるのである。

つまり、ノーマルとハッピーのどちらが相応しいというよりも、この2つが揃ってこそ「ほたるルート」なのだと、筆者は結論付けたいと考えている。

一応、ノーマルルートにも花を持たせるとするならば、誠がもし「オリジナルのほたる」を否定することが間違いだとしても、それもまたある意味では「人間」だということである。失敗をするのもまた、神ではなく人間の専売特許とも言えるのではないのだろうか。それを物語として敢えて落とし込むというのも、アマツツミの度量の大きさであり、死んでしまった誠へのせめてもの鎮魂なのかもしれない。

総括

当ブログの一番最初にあたる記事を読み返しすと、筆者はこんな事を書いていたようである。

アマツツミの粗筋は公式サイトを見れば分かるが、敢えて筆者自身の言葉で纏めるとするならば、アマツツミは「主人公の誠が神から人間に成ろうとする物語」である。

(中略)

筆者はアマツツミをプレイしている最中でも、誠や愛が自分達を神の末裔であると自認することに違和感を覚えていた。確かに彼等が普通の人々とは異なり、人の意思や行動に干渉出来る言霊を使えるのは明らかな違いではある。しかし、それだけなのである。言霊を使えるか否か、その違いさえ除けば他は別段同じなのだ。お腹は減るし、眠くなる時だってある普通の人間の特徴をちゃんと持っている。だから物語が進む中で、誠は世の中には言霊でもどうしようもない事があるというのを知ることになる。誠の、自分は神に近い存在で言霊さえ使えばどうとでもなるというある種の自信が崩れていくのである。それでも誠は自分の出来る範囲の中で、目の前の問題を解決しようと模索していくのである。誠が自らの限界を認め、それでも諦めずに行動する姿に筆者が魅力を感じたのは言うまでもない。

アマツツミ全クリしたけどさ・・・・・・、エロゲって面白れぇじゃん!!!-或訓練された信者の一生より引用

時間はかかってしまったものの、上記に書いたことをもっと分かりやすくちゃんと言葉にする為に、今迄ブログにして感想を書いてきたのかもしれない。自分の書いた文章を読み返すのは勇気のいることだが、書いていることはすんなり入ってきた。多分、根本の部分は変わらずにずっと自分の中に残っていたのだろう。

本編中に誠は何度も、神でありながら人の世界に居ることの是非を問われた。確かに超常の力を持つ彼は、神のような存在であり言霊を人に振るうことは、いずれ悪い結果をもたらす可能性も否めなかった。しかし、誠は人と生きることを自ら望んだ。コミュニケーション、人間らしいその行為を求め、里を飛び出した。

結局、自分が何者になりたいかを決めるのは、自分自身なのである。それを求めて行動し、その果てにある結果がどんなものであっても、自分自身が決めたものならば、受け入れてまた前に進めるのである。神の在り方がどうとか人間はどうだの、そんなものは所詮「外側の理屈」でしかない。

この世の理を外れて生まれた、鈴夏や今迄のほたる達は自分で自分自身を決めて懸命に生き抜いた。響子もこころもあずきさんも、誠が普通とは違うことに気付いても、その上で誠も受け入れた。愛もまた、外の世界を知り人と交わり、世界が広い事を知った。我々もまた、自らが思うが儘に自分自身で進むことが大事なのではないのだろうか、アマツツミはそれを教えてくれたと思っている。

アマツツミは、筆者が初めてやったエロゲということもあり、良くも悪くも筆者の心にしっかりと刻み込まれる作品となった。当分はこれを超えると感じられるものとは出会えないような気もしている。それでもやっぱり最初に遊ぶのが、本作で本当に良かったと胸を張って言えるのは確かである。

誠はほたるを救い言霊を失った。しかし、それは只の喪失ではない。彼は言霊より、もっと大事なものをその手に掴んだからである。それは人間としての新たな生の始まりなのである。それに我々が知っている通り、世界はもっと複雑で大きく楽しいこともそうでないことも、一言では言い表せないくらいに溢れている。言霊なんてものは問題にならなくなる程に。それでも、人間の悪意を目の当たりにしながらもそれを乗り越えた彼なら、どんな事があってもそう簡単に心折れる事は無いだろう。

誠がこれからも学園に居るのか、それともほたるの言う通りまた旅を始めるのか、それは分からない。だが、もう彼は1人ではない。誠の周りには沢山の大事な人達が居て、そして彼の隣には愛すべき人が寄り添っているのだから。

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